最近受けたカルチャーショック
移住して1年、農地を借りることができた。約30m×10mは、素人が初めて農業をするにはまあまあの広さで、自家消費用としては十分かと思う。
畑を耕し進めるうちに、地面に限りがあれば収穫も有限だということを学んだ。何を当たり前なことを言っているのだ、と思うだろうが、しかしこの当たり前を実感している人はどれくらいいるだろう。スーパーに行けば、旬でもない野菜も好きなだけ購入でき、地球の裏側でしか取れないものも並んでいる。野菜どころか豚も牛も手に入る。しかし、それらをカゴに入れる時、これらの食物を育むのに必要な地面の大きさやどれだけのエネルギーが費やされたかを考えることはない。
今、世界中では農地(農耕ができる土地)の争奪戦が起きているという。当たり前のように農地が広がっている日本に住んでいる私たちには想像ができない。それだけに日本は恵まれているのだろう。ある国では外国への農産物の輸出を制限したり、自国の土地を耕作地にする努力をしているのに、我が国はどうなっているのだろう?
買い物は欲望の大きさに合わせて際限なく拡大され、地面の大きさに制限されることはない。自分で野菜類を作ってみて、ひとつの野菜が実るまでに必要な地面の大きさ、エネルギー、時間や手間をイメージできるようになったのは、都市生活をしている時は気づかなかったが、食物は有限の世界からやってくるという初めての感覚に、素直にカルチャーショックを受けている。
胃袋の大きさと地面の広さ
現代はテレビを見てもネットの中でも美食を追い求めたり、心ゆくまで食べることは悪どころか称賛されているように思う。畑を作るようになってから何かを食べたいから買う(作る)ではなく、これができたからどうやって食べように変わってきた。自分の胃袋に世界を合わせて、みんなが際限なく欲望を実現したら、世界はあっという間に食い尽くされる。それこそ昆虫でも食べなければいけなくなる。そろそろ、地面の大きさに胃袋や欲望を合わせる時期に来ているのではないか。
私の畑はいわゆる自然農法で育てている。無農薬、無肥料、不耕起である。作り方について最初は色々な書籍やネット情報を読んだ。堆肥と肥料を指示通りに配合し、市販の苗を植え、農薬をかけながら育てれば、それなりのものがきちんとできるらしい。隣の畑はいわゆる慣行農法で、農薬と化学肥料を使って育てた野菜である。それらを使わなかったものと比べてみると、育ちかたや形がまるで違う。化学と技術の力に驚くも、今スーパーに並んでいる野菜のほぼ全てがそれであると想像することはそれほど難しくない。
収量と昆虫と微生物 命のバランス
しかし、痩せた土を豊かにするということは、その豊かさの分をどこか他の所から持ってくることでもある。自分の畑を堆肥で豊かにすることは、別の土地の豊かさを奪い取ることでもある。自然農法で土地を豊かにする=地力を上げるには、その土地に生えている草が朽ち果て、根についた細菌類が土壌に混ざり、昆虫類の死骸が分解することで、その土地に合った土壌になっていく。そのためには数年の時間が必要である。痩せた土地では、痩せた土地なりの野菜の作り方をしたほうが、野菜にとっても人にとっても無理がないように思う。
そして、慣行農法と自然農法では収量と生き物の量が逆転する。薬を使わない菜園のほうが(当たり前だけど)生き物が多い。確かに葉っぱをかじる虫や病気にも会いやすい。雑草も生えているので、赤ちゃん野菜の時期はそれなりに手間をかけてやらないと育たない。それがある程度育つと、多少葉っぱをかじられても「ナニくそ!」と頑張る野菜になってくれるし、共存する虫や菌類も増えてえいく。化学の力で野菜を作ることは、収量は増えるが本来そこで育まれたはずの他の命を野菜と引き換えることでもある。
余談であるが、自然農法を続けていくとその土地に最適な土壌になり、病害虫すら寄せ付けない土地になっていくそうである。何年先になるかわからないが、土地を育てる楽しみも加わった。
受粉という自然のサービスを受ける
花が咲く時期には虫たちがやってきて受粉をしてくれる。これら自然のサービスは、周りに健全な自然があるから受けられるものだ。共存共栄ということでもある。自分だけの収量に目が眩んで害虫駆除の農薬を使ってしまったら、これらの益虫の自然サービスも受けられなくなるどころか、自分の周りの自然の豊かさまで失ってしまうことになる。
自分の畑には薬をかけても、周囲に自然があれば益虫は来るだろう。自分の収量だけを伸ばすなら、受粉や除虫の自然サービスを受けつつ、彼らの命を使い捨てるのが賢いやり方だろうか。しかし、その一帯のすべての畑が命の使い捨てを行なったら?……虫が消えた世界ではいったい誰が受粉をしてくれるのだろう。
自分と他の生き物の双方にとって、豊かさを最大限に生かす農業とはどんなものか。畑から貰える自分の取り分はどこまでか。私のテーマである「身土不二」は実現できるものなのか。間引きした野菜たちをどう食するか考えつつ過ごす一日です。