老いを認める

衰えていく能力をありのままに認めると
体と心が距離を取ることができる
自分を同一化していたものと距離を取って自分を見ることるができる
そうすると色々な束縛から解放することができるようになる
一番自分を縛っているのは自分である
身体や心で縛られていたものが解放されていく
それが老いの効果、恩恵である
しがみついていると自分から解放されるチャンスを失う

気になる言葉でしたので、書き留めていたもので、引用先は不明です。

目次

「老い」のプラスとマイナス

いま一度「老い」を考え直してみます。
 1つ目は身体的に老化すること。
 2つ目は家庭、地域、職場などの社会的関係の変化、行動などの退行を伴う現象などでしょう。

注目は二つ目の意味です。これが「老い」に対する発想に繋がる鍵となるのではないでしょうか?

人は人生を重ねると「円熟」味が増すとらえます。
「円熟」は、人格・知識・技術などが円満に発達し、豊かな内容をもっていることを意味します。
「老い」をプラスに捉える解釈としては、的確な表現だと思います。

しかし、実際の生活においてはそう素直に受け止められない場合が多いのが本音ではないでしょうか。
いくら自分の経験が評価されるべきものであると言われても、周囲から本当に認めてもらい、評価してもらえるかという点については、現実的には疑わしいと思う方も多いことでしょう。
すると結局は、「老い」をマイナスなものとして感じざるをえなくなってしまうのです。

見方を変える

仏教では、「物事の見方が変われば世界が変わる」という考え方があります。これは「正見」という教えに由来します。要するに、「自分の偏見や先入観に捉われることがないように物事を受け止めていくことが大事」ということです。

「正見」-正しいものの見方
正見とは、自分中心の誤った見方を捨て、この世の有り様を客観的に合理的にみることが大切であること

人は、ついこの世に起こっているものごとを自分の都合でねじ曲げてとらえてしまいがちで、なかなか現実をありのままに正しく認識することができないことを言っています。 

人は誰もが、自分自身のフィルターを通して、この世の中を認識しているのですが、それがあたかも客観的に見ている、他の人も同じように見ていると思いがちです。年齢を重ねるとそのフィルターの厚みも増してくるでしょう。

自分フィルター」からは離れようがないのです。そして、その「自分フィルター」は人それぞれで違うものです。
ですから、自分が見ているようには、人は見ているとは限らないし、自分が感じているようには、人が感じているとは限らず、むしろ食い違っているのが普通なのです。

ところが、人は、自分が見ていること、自分が感じていることが、当然のことであり、それがあたかも「客観的なもの」と思い込んでしまいがちなのです。

そこで、世代間の考えを理解できずに、自分の考えを見直すことができずに押しつけあって、争いが生じてしまい世界を狭くしてしまっているのでしょう。

「老い」によって得られたもの

話を元に戻すと「老い」によって得られたものがないかを思い起こしてみてください。「老い」によって周囲から許されるようになった言動はないか考えてみてください。
おそらく、服装、優遇、自由時間など、日常生活の中に多々あると思いますが、中でも最も際立つのが「発言」だと思います。

この「発言」が自分フィルターにより「自分は客観的に見てはいないこと」を自覚することです。
だからこそ「客観的に見ようと心がけること」によって、視界は以前より開けてきて、随分生きやすくなってきた気がするのです。

お釈迦様の言葉で、苦しみを消し幸せに生きるために、まず大切なことは「自分はものごとを必ずしも客観的には見ていない」ことに気づくこと、その上で「ものごとを客観的に見ようと努力すること」が重要なんです。

この記事を書いたきっかけ

先日、NHKオンデマンドで
世代間の葛藤、反発と共感を描いた伝説の土曜ドラマ・山田太一シリーズ「男たちの旅路」
を見る機会があり、その中の(2)路面電車

 高齢者施設の老人たちが、路面電車を占拠して立て籠もるのですが、自分たちの要求は伝えず無言を通します。最後までそれが何だったかわからないのですが、それが自分たちが歩んだ人生と今を生きる世代の人とのギャップを表した、秀逸な作品だと思い、この記事を書きました。
初回放送1976年の時に二十歳過ぎの若造の私が見たら、どう感じていたでしょう?

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